那挪威的森林‖(3)生と死
从第二章的阅读开始,村上使叙事变得相对正常了一些。因为这部小说是第一人称,所以他让渡边交代了一下故事发生的背景。主人公渡边是一个新晋的大学生,那正是高中毕业之后百无聊赖的日子。刚好前几天还在高中同学群里面回忆,那正好是青春期与成年人的交界时段,确实需要一种信仰。实际上整部小说里面的渡边彻正是一个犹豫而不知自己究竟想要什么的人,其实我们大多数人都是这样的人。
昔々、といってもせいぜい二十年ぐらい前のことなのだけれど、僕はある学生寮に住んでいた。僕は十八で、大学に入ったばかりだった。東京のことなんて何ひとつ知らなかったし、一人ぐらしをするのも初めてだったので、親が心配してその寮をみつけてきてくれた。そこなら食事もついているし、いろんな設備も揃っているし、世間知らずの十八の少年でもなんとか生きていけるだろうということだった。もちろん費用のこともあった。寮の費用は一人暮しのそれに比べて格段に安かった。なにしろ布団と電気スタンドさえあればあとは何ひとつ買い揃える必要がないのだ。僕としてはできることならアパートを借りて一人で気楽に暮したかったのだが、私立大学の入学金や授業料や月々の生活費のことを考えるとわがままは言えなかった。それに僕も結局は住むところなんてどこだっていいやと思っていたのだ。
很久以前,大约是二十年前,我曾在一幢学生宿舍里住过。当时我十八岁,才刚刚上大学而已。父母担心我一来在东京人生地不熟,二来又是头一次离家,所以帮我找了这个宿舍。这儿不但供应三餐,而且设备齐全,二老都觉得,即使是一个年仅十八岁的初出茅庐的少年,也应该能够适应才是。当然,钱也是个因素。住宿舍的花费要比一个人过活便宜的多了,因为你只要准备好棉被和台灯,其他的就不必买了。如果可能,我自然希望一个人租个公寓,过得舒服自在一些,不过,一想到私立大学的入学金、学费、还有生活费,我都不好意思开口了。何况,只是找个地方栖身而已,并不需要太讲究。
死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。
死不是生的对立,而是它的一部分。
僕はそんな空気のかたまりを身のうちに感じながら十八歳の春を送っていた。でもそれと同時に深刻になるまいとも努力していた。深刻になることは必ずしも真実に近づくことと同義ではないと僕はうすうす感じとっていたからだ。しかしどう考えてみたところで死は深刻な事実だった。僕はそんな息苦しい背反性の中で、限りのない堂々めぐりをつづけていた。それは今にして思えばたしかに奇妙な日々だった。生のまっただ中で、何もかもが死を中心にして回転していたのだ。
我就这样感受那空气的凝块,一面度过我十八岁那年的春天。但同时,我也努力不让自己变得深刻。我渐渐能够意会到,深刻不等于接近事实。不过,左思右想,死仍旧是一种深刻的事实。我便在这几乎令人窒息的矛盾中,来回地兜着圈子。如今回想起来,那真是一段奇妙的日子。在生的正中央,一切事物都以死为中心,不停地旋转着。
如此深刻的话语,其实在我们的潜意识之中都有过深刻的考虑。我们常常思考人生的意义,但是你很难在二十多岁的时候有不惑的心态。我们不断的用知识和阅历武装自己,把自己武装成为越来越深刻的人,可是,直到懂得越来越多,才回味起年少时候的日子,是那样的美好。最近我也常常涉猎多维空间、平行宇宙、量子力学、时间非恒等等一些原来我笃定认为那是玄幻而迷信的东西,我也在琢磨用有限的一生究竟能够干点什么有意义的不负生命。
我想,我们无法跨越维度的限制,但是好在我们已经不再是十几二十几岁的渡边,我现在所做的事情,就是不断的简化自己的所需,使自己尽量不要心有旁骛。没有机会成为一个彪炳史册的人,就成为一个不虚度年华的人。